本町の歴史は古く、原始時代に始まる。点在する遺跡の中には、新石器 時代から人々が住んでいたことを物語るものが見られる。 古代は、この地が紀北にあったという物理的関係から、紀伊国の統制を 受け、奈良朝以来、熊野詣が盛んになるとその通過地となり、大和朝廷の 文物の流入が行われ、中央との結びつきが深まった。 中世になると、古代律令制時代の口分田は、ほとんど姿を消し、藤原摂 関家に属する荘園となった。藤原家の没落とともに、加茂谷北部の加茂川 水流は、戦国大名畠山家の家臣団である加茂氏の領国として、また、南部 地域は高野山領となったが、代官梶原氏の撤退によって、宮座を中心とす る惣村が形成された。 近世になると、両地域とも封建領主の支配下に統括され、中世の隷属農 民の自立が行われ、この地の特産であるミカン栽培は、徳川御三家の一つ である紀州徳川家の保護政策の下で大きく発展した。 また、大阪・江戸を結ぶ海上交通の発展とともに、塩津、大崎、下津は 寄港地として賑わい、回船業が興り、漁民は遠く関東の漁場まで進出した。 近代に入り、新しく繊維・木材工業等の産業が興った。下津港は木材港 として発展、その後現在のコスモ石油(旧丸善石油)の前身である土井石 油の進出で石油港へと転身していったが、鉄道の時代を迎え、かつての回 船の寄港地は寂れていった。 第二次大戦の惨禍はこの地まで及んだが、戦後はエネルギー変革が石油 への需要を増大し、また、消費生活の高度化がミカン需要を増大させたた め、石油とミカンを産業の中心とするこの地の優位性が高められ、目覚ま しい立ち直りを見せた。 ところが、昭和48年の石油ショックを契機とするエネルギー需要構造 の変革は、石油精製施設の過剰問題を引き起こし、昭和57年12月、長 年当地の主力企業として、地域の暮らしと産業の中心的存在であった旧丸 善石油下津製油所の操業の大部分が停止するに至り、他方で消費生活の高 度化、多角化、そして国際化がもう一方の基幹産業であるミカンの需要を 減少させ、単作地帯である当地に大きな打撃をもたらした。