熊野本宮 小栗と歩く中辺路
小栗の魅力小栗物語と熊野このページです熊野の祈り

安井さんに大斎原を案内していただいた。
「熊野を語るとき忘れてはならない人物がもう一人いる。小栗の物語を広めた時宗の開祖、一遍(いっぺん)上人である。」  

一遍上人の碑 一遍上人と熊野本宮の関係

説教説いう中世の口承芸能によって広まったとされている「小栗判官と照手姫」の物語。そこには時宗の関与があったと思われる。つまり、熊野信仰を盛り上げていったのは時宗(総本山・清浄光寺 別名、遊行寺)という仏教であった。
時宗は鎌倉中期から室町時代に小栗の物語などを通して、それまで身分の高い者だけだった熊野を庶民に伝えた仏教である。
開祖、一遍上人は熊野本宮のに証誠殿(しょうじょうでん)にて熊野権現の神勅を受ける。それから「一遍」を名乗り、鹿児島から青森あたりまで念仏を唱えながら全国各地を遊行したといわれている。

本宮大社は本来、熊野川、音無川、岩田川の三川の中州にあった。
この中州を大斎原(おおゆのはら)という。昭和22年7月、約1週間降り続いた雨は大水害をもたらし、その土石流によって中四社、下四社の八社殿は崩壊してしまったが、残った上四社は規模をそのままに約2年と言う速さで現在の社地に移築された。

本宮大社の旧社地である大斎原(おおゆのはら)には、時宗寺院の手によって昭和47年に一遍上人の徳を偲ぶ碑が建てられた。
土台となっている石にはそれぞれの寺院名や個人名が刻まれている。

「信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず」

一遍は四国、松山の出身で10歳で出家、13歳で浄土宗に入門。25歳で父を亡くし、
家督を継ぐために一度故郷に戻るも、33歳で再び出家する。「南無阿弥陀仏」と書かれた念仏札を配って
人々に念仏を勧めながら、旅を続けていた。
「一念の信を起こして、南無阿弥陀仏と唱えなさい。」
一行は四天王寺から高野山を経て、阿弥陀の浄土とされていた熊野へ。そこである僧と出会う。
一遍は念仏札を渡そうとしたが、その僧は札を受け取らなかった。今までそんなことがなかった一遍は
とてもショックを受ける。どうして受け取ってもらえないのかと尋ねると、信心がおこらないので、
受け取れば嘘になるという。周りに人が集まってきたので、一遍はそれでもよいと札を渡した。

しかし、僧の言うことはもっともだった。今まで自分がやってきたことはなんだったのか?
悩みながらも、熊野本宮へたどりついた一遍は証誠殿(しょうじょうでん:スサノオを祭っている御社殿)
の真下にこもられた際、夢枕に熊野権現が現れ、一遍にこう告げた。

「信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、念仏札を配るのです。」
一遍の念仏の勧め方は一方的だった。信心を押し付けていたのだ。
そうではない。信心をもっていてもいなくても、どんな人も阿弥陀仏によって往生するのであるから、素直な心で、
仏を求めて念仏を唱えるだけでよいのだと。

この時から、智真(ちしん)という名から一遍に変え、新たな念仏布教の旅が始まった。
信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、身分の違いや老若男女を問わず。
熊野のありがたさは小栗判官の物語とつながっていく。
こうして熊野からの旅が真の布教となり、出会う人々に念仏を唱え後に踊念仏と念仏札を配ることを
主とした布教活動で時宗は日本中に広まっていった。


大斎原には日本一の大鳥居が建てられた。
一遍は生涯自分の寺を持たなかったが、その教えを受けた人々が各地で寺を建て、熊野本宮を聖地として熊野信仰をますます広めた。

その後浄土真宗の勢力が大きくなり、江戸時代の神仏分離の影響などで残念ながら一遍上人と熊野の関係を示すものは多くは残っていない。



大斎原
しかし、現在でも時宗代々の官長が就任するときには、神奈川県藤沢市の時宗総本山、遊行寺(ゆぎょうじ)にて就任式を経て、熊野本宮へ参詣奉告することになっている。

2004年3月13日、一遍上人から数えて74世にあたる他阿真円上人が大斎原にて就任の奉告祭を執り行っている。
こういった事例からも、本宮が今でも神仏の結びつきが強いところであることを物語っていると言える。



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