熊野本宮 小栗と歩く中辺路
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人々は熊野に何を求めたのか? 

「熊野」という名には「籠もる(こもる)」という意味があり、死者の霊魂が集まり浄化されていく場所であるとされていた。
一遍が熊野権現から告げられた「信不信を選ばす、浄不浄を嫌わず」という言葉は、神仏一体であることを示すものであり、
これは本宮が奈良時代から始まったとされる神仏習合の中心的存在であったことを示しているという。

熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智那智大社)は江戸時代のころまで神仏習合が盛んであった。
本宮の祭神は素戔鳴命で、本地仏(神本来の姿は仏教の仏、その仮の姿が神道の神という意味)は阿弥陀如来とされており、
本宮に参拝するということは、延命長寿を願うばかりでなく、精神的・身体的な蘇りを神仏一体の素戔鳴命と阿弥陀如来に
願っていたということであった。

そして、小栗は肉体を蘇生することができ、一遍は精神を蘇生させ、真の布教活動を行ったのである。
安井さんはこのように、語っている。

熊野本宮大社にて
中世の時代から、あらゆる人々が「熊野の奇跡」を求め、古道を歩き、
熊野本宮へやってきた理由はここにあるのではないだろうか。

魂の救いを求めて、身体の自由を求めて。
世界遺産に登録され、また多くの人が訪れることとなった熊野。
熊野古道の終着地点の本宮を訪れることは、人生の再出発地点に
立つことであると信じられてきた。

そんなことを感じながら歩くことが、熊野の世界を感じることではないだろうか?




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