すさみ町が日本のレタス栽培の発祥の地だということは、あまり知られていない。
昭和16年ごろ、すさみ町江住(旧江住村)に三反ばかりの耕地でレタス栽培が始められたが、そのうち、第二次世界大戦が勃発し、緒についたばかりの農園も閉鎖。
終戦後の昭和26年、その農園で働いていた口和深浜口近蔵氏が本格栽培に取組み、農協が栽培を奨励し、量産と販路拡大を図った結果、すさみ町はレタス産地としての地位を築くこととなった。
昭和57年頃には、栽培面積60ヘクタール、生産者134名とピークを迎えたが、その後、価格の低迷、後継者不足、病気による連作障害等で、生産額は下降の一途をたどり、今では生産者は12農家となり、最盛期の10分の1以下になっています。
昭和30年ごろ、レタスを使っていたのは特定のホテルか洋食店くらいのものだったので、販路は極めて狭かった。
当事静岡県の吉田農協が、米国進駐軍へ納入していることを聞き、すさみ農協組合長山本健吉はさっそく横浜の米軍基地を訪ねた。もちろん通訳を通じて交渉にかかったが、なかなか受け付けてくれなかったので、その内情を調べたところ、米軍指名の御用商人を通じることが第一歩であることがわかり、横浜市の山中商店の門をたたいて哀願した。
山中商店は親切に指導してくれ、まず指定産地としての検査を受けなければならないということであり、さっそくその手続きの世話をしてもらった。翌年レタスの定植前に、米軍衛生係、軍医等数名が来町し、土壌検査を受けたが、蛔虫卵が検出され、不合格となった。
農家に対しては、虫下しの薬を配布し、さらにレタス栽培田への糞尿持込を禁止した。一方町当局に対し、し尿処理場の設置を申し入れた。山中商店へは極秘契約で生産物を買ってもらい、静岡産のレッテルを貼ってもらうなど、大冒険をして辛うじてその年のレタスをはかせた。
農家の自覚も高まり、人糞尿の使用はなくなったが、一方で最大の消費地を失ったし尿処理が大問題となった。町は応急処置として溜槽を十数か所つくり衛生車を購入した。
こうした努力がみのって昭和34年からは米軍の指定を受け、基地向け野菜として堂々出荷をはじめた。「米軍用」の効果は大きく、たちまち関西でのレタス産地として認められるようになった。
第二弾として京都・大阪・神戸の大消費地をねらい、各卸売市場を廻った。キャベツ、白菜、大根など山積みされた中に、レタスがほんの見本のように出されている店があった。長野県、千葉県産のものであった。ここで店主にかけ合い、大阪中央青果と関西青果を通じ、まず200箱の商談を取り付けた。
勇躍したことは言うまでもない。帰途経済連にこの話をした。小谷剛久はさっそくキューピー・マヨネーズ(株)から販路拡張費として40万円の寄付約束をとりつけてくれた。
宣伝策をねった。そこでまず「生野菜の食べ方」....と刷り込んだ透明なセロファン紙にひとつずつ包装し、従来の木箱を、「すさみレタス」と印刷したダンボール箱に切り替えた。
時代とともに急テンポに変わっていった食生活の向上も手伝って、年々20%ずつの売上の伸びを続け市場の人々を驚かせた。勢いに乗りさらに市場の従業員に「すさみレタス」と染め抜いた前掛けを各荷受会社ごとに20枚ずつ計120枚配って大宣伝をやったので、一躍関西随一の産地として名声を上げるに至った。
© 2009 All right reserved.