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●湯浅 宗重(ゆあさ むねしげ)

 平安時代末から鎌倉時代初期にかけて湯浅を本拠地に活躍した武士です。宗重を中心とした湯浅党は戦記に名高く、その勢力から、平氏の時代には平清盛に、鎌倉幕府になってからも頼朝の信頼が厚かったといいます。
 また、武勇の一方で、神仏を崇信して、神社、寺院の修理や建立を行い、手厚く保護するという横顔も持っていました。次に紹介する明恵上人は孫にあたります。

●明恵(みょうえ)

 鎌倉前期の僧。16歳のとき出家して、京都、奈良に学びますが、名利だけを求める風潮を嫌って、23歳で湯浅に戻り、山中で一人修養と研鑚につとめました。
 栖原白上の峯に入り、さらに東白上峯に草庵をたてて修養に励みましたが、そこでの修行はたいへん厳しいもので、一切の俗念を払拭しようとして右耳を削ぎ落としています。
 後に後鳥羽院から土地を賜り、京都・高山寺を復興します。建礼門院はじめ位の高い人々から庶民に至るまで、多くの人が人柄と教えに帰依したといい、その中には仏師として名高い運慶、快慶らもいました。
 また上人は、和歌にも長じ、月の歌が多かったので「月の歌人」という優美な異名をとりました。

●栖原 角兵衛(すはら かくべえ)

 栖原家の当主は、代々角兵衛と称しました。初代は房総の漁場を開拓し、さらに5代目は蝦夷(北海道)の漁場を開き、6代目は樺太と北海道・宗谷間の定期航路を開くなど、歴史が樺太、千島まで漁場を開きました。
 このように、北方の漁場の発展に貢献したほか、函館付近の上山村の開墾や、ロシア侵入に備えた防備にもつとめたということで、当時の栖原家の有力者ぶりがうかがわれます。

●須原屋 茂兵衛(すはらや もへえ)

 4代目須原屋茂兵衛は、杉田玄白の「解体新書」を出版した”江戸の本屋”須原屋の本店当主です。
 栖原村の須原家は、代々江戸で薬問屋と出版業を営み、山の手の武士や教養人に人気がありました。
 当時、「解体新書」は罪に問われる危険性のあるものだったにもかかわらず、日本の将来のために出版を決断した功績は高く評価されています。

●菊池 海荘(きくち かいそう)

 栖原の生まれの菊池海荘は、家業を継いで江戸で砂糖・薬問屋を営むかたわら、詩に親しみ、故郷に古碧吟社を創業しました。ここには、有名な詩人が訪れ、全国にも名高い詩の集団となっていました。
 また、渡辺華山、佐久間象山、大塩平八郎らとも親交を結び、国内、世界の情勢に通じて、天保の飢餓では私財を投じて土木工事を起こし、難民、失業者を救いました。 

●鎌田 柳泓

 江戸期の最も優れた哲学者の一人として、高い評価を受けている柳泓は、心学と医学を、伯父であり、養父である一窓から学びました。
 柳泓はまた、中国、日本の古典文学に通じていたほか、医学、天体力学、生物学といった分野にも精力的に取り組んで、心理学的、科学的説明を備えた独特の理学を大成しています。

●鎌田 一窓(かまた いっそう)

 湯浅道町出身の一窓は、幼いころに京都に移り住み、医術を学んで本業としました。そのかたわら、当時の人間観として清新な学問であった心学に傾倒して石田梅厳に学びました。梅厳亡き後は旧宅を預かり、また各地に講舎を創立して、心学の普及に努め、湯浅にも有信舎がありました。
 その人柄と所説が、人々に敬慕されたということです。

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