冬の嵐のなか、我が身を犠牲にしてまでも日本人船員を助けようとしたデンマーク人船員の勇気と愛にあふれた出来事をご紹介します。





1957年2月10日
神戸港へ向けて航海中だったデンマーク船エレンマースク号は日ノ御埼灯台西の沖合で火災を起こしている船を発見しました。火災を起こしていたのは、徳島県の機帆船「高砂丸」で、炎に包まれた船の中では乗組員が火のついた板切れなどを振り回して、助けを求めながら船上を逃げまどっていました。その日は、風速20メートルを越す風が吹く大荒れの天気で、マースク号から下ろされた救命艇が救助に向かいましたが思うようにいかず、そればかりか強い風のためマースク号さえも暗礁の多い方向へと吹き流され、非常に危険な状態になっていました。そこでマースク号は救命艇を回収し、自船の危険を避けるのと救助をしやすくするため、高砂丸の風上に寄って救助に向かうことになりました。すでに、高砂丸で確認できるのは船長らしき一人だけとなっており、近づいたマースク号から投下された綱を頼りに海に入り、なんとかマースク号から下ろされていた綱ハシゴにたどり着くことができました。疲れきった体で必死になってはしごを登っていった彼は、あと少しというところで力尽き海へ転落してしまいました。船上から一斉に「ワッ!」という悲鳴が沸き上がったその瞬間、そばで見守っていたクヌッセン機関長が、救命ベルトを締め付け海に飛び込んでいきました。その後、クヌッセン機関長は救命ブイを渡そうとしましたが、荒れ狂う波の中うまくいかず、ついには2人の姿が波間に消え、見えなくなってしまいました。マースク号は再び救命艇を出動させましたが、強い波がボートを襲ってエンジンが壊れてしまいその救命艇も沈んでしまいました。当時の乗組員は、そのときの様子を「救助をもっとも近いところで見ていたクヌッセンさんは、何もためらうことなく『助けなければ!』と、とっさの行動に出たのだと思う。我々はただ、祈るばかりだったが、なにぶん大荒れの海面。クヌッセンさんの必死の苦闘もかなわなかった…。」と語っています。
 
悪夢の夜が明けた次の日の朝
クヌッセン機関長の遺体とマースク号の救命ボートは日高町の田杭港周辺で発見されました。昨夜の苦闘を物語る機関長のライフジャケットや胴体に大きな裂け目のあるボートに人々が大騒ぎしているところへ、当時の御坊警察署長が到着し、昨夜のマースク号とクヌッセン機関長の話が説明されました。それを聞いた地元の人たちは一同に驚き「あの嵐の中で、日本の船員さんを助けるために海に飛び込んだ方なのか。そんなこと人間のできることではない。この人は神様だ!」と流れる涙をこぶしでぬぐいながらひざまづき、その手はいつのまにか合掌に変わっていったと今でも伝説のように伝えられています。
 
その後
遺体の漂着した日高町田杭地区では、あまりにも勇敢なクヌッセン機関長の行為に感動を受け、せめて彼の魂を弔いたいと、その地に供養塔を建て住民が交互に清掃し、常に新鮮な花を供えて絶やすことなく慰霊の気持ちを捧げ続けています。また、美浜町日ノ岬の高台には、彼の勇気と愛にあふれた行動をたたえた顕彰碑と胸像が建てられ、「クヌッセンの丘」として今も末永くその冥福と航海の安全が祈り続けられています。
 


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