広川町における熊野古道と王子考 改訂版
絵巻物位置図   元 広川町観光協会会長 竹中 正 
 広川町内を通る熊野古道がどのようなルートであったかについては、時代によって変遷したせいもあり、また川の増水に対応する為の別 ルートなどもあり種々の説がある。そして特に「井関王子」と「津兼王子」の関係についても不確かな記述があると思われる。西 律氏著『熊野古道みちしるべ』(荒尾成文堂刊)や、松本 保千代氏著『熊野古道を歩く』(宇治書店刊)によると、両王子は同一の地にあって別 称の如くに書かれているが、この地に住む私どもが古老の話を聞き、また「ここだ」と言う痕跡があった場所を勘案するに、以下に記すような考察が妥当と考えられるので大方のご参考にして頂ければ幸いである。

 現在の湯浅町吉川にある「逆川王子」を経て方津戸に入る熊野古道は、その先、中世までは別所を通って「久米崎王子」に至る。ここから広川町に入るが、広川を渡ることなく右岸に沿って山沿いに名島、柳瀬を通り井関に入った。柳瀬から井関への道は現在は通れなくなっているが、ここは「片地道」といって、昭和の初めまで柳瀬から井関分校へ通う児童の通学路でもあった。

 そして、この辺りの公図によると太い線で描かれた「里道」が残されている。この里道は井関に入って二つに分かれ、一本は南へ直進し稲荷神社の下を通る道で、通称「小栗道」と言われている。また、もう一つの里道は、やや西寄のコースをとって、これが熊野古道の本道であった。分岐点を過ぎて約百メートル進むとそこに椿の森があり左に曲がって進むようになる。ここが「津兼王子」のあった所で最近までみかん畑の片隅に祠が安置されていた。少し前まで大きい椿が一本あったという。ここの地番は大字井関字北垣内二七七番地(九一坪)で民間の所有する畑になっていたが、この地を近くの人達は「だいじごさん」(大神宮さん)と呼んでいた。平成に入ってこの辺り一帯は高速道路の通過地点となり、広川インターの用地として広く建設省に買い上げられ跡形もなくなったが、この工事が完成し、元の地点がインター内のループの空地に当たるのでその位置に祠を安置し、町教育委員会、町観光協会が平成六年竹中正寄進による石碑を建てて「津兼王子跡」として残している。このあたりの道は農道としてはかなり道幅が広く、約2.0メートルはあった。これより古道は南に進み、前述の「小栗道」と、中世以降の熊野古道とも約二百メートルを過ぎたあたり、今の国道との交差点付近で合流したものと思われる。

 一方、中世以降、人々の住まいや商いなどの関係で、湯浅町内の熊野古道ルートも変わり、湯浅町道町を南下するコースとなる。途中、寺前通 りとの交差点には今も二メートル以上の大きな石造の道標が残されている。道町を通り切ると小さな川に出る。ここから先の島の内という所は昔は陸地ではなく広川の河口であったので、舟で広川町に入った。(現在は、これより数十メートル河口よりに県道のコンクリート橋が架けられている。)そして現在の広川町東町に上陸して名島、東中、殿へと進む。東町では今もこの道を「熊野通り」と呼び、この辺りを「熊野町」と言う。東中から殿に入る道は今は一部が跡形がはっきりしないところもあるが、殆ど昔のままの道が残っている。

 殿の終わりで広川につき当たる。現在広川の堤防上に町教育委員会と、町観光協会が共同で「熊野古道のご案内」の案内板を建てている。この護岸は近年の工事で高くなっているが昔はかなり低かった。この先、川向こうに見える道が古道である。昭和の初期、現在の国道のところに県道ができるまで、ここには木造の橋があって県内の基幹道路であり、住民の生活道路でもあった。また、昔は板橋(流れ橋)であったが近年には広村の資産家が頑丈な木造橋を造り料金をとっていた時期もあったという。井関に入ってすぐ右側に「一里松」があり、約五十メートル進むと道路の合流点左側に「井関王子」があった。この地は古くから圓光寺の寺領で、お社があった。ここの地番は公図によると大字井関字北垣内三一三の一番地と二番地(計三四三坪)で、現在は自動車整備工場と畑になっていて昔の面影もない。(前記二書にはこの地番を三一一三の一番地と記しているが、井関の地内にはこの様な数字の番地は存在しない。また、<広川町誌>上巻、歴史編三八六頁、三八七頁、下巻六八頁や、平凡社刊<和歌山県の地名>四九三頁下段にもこの地を、大字井関字先開としているが、井関王子も津兼王子も北垣内であることは公図によっても明らかである。)

 「津兼王子」はここから東方約二百メートルの地にあったため、この地はその揺拝所として造られたが、後にはここが熊野詣の本街道となり、「井関王子」となった。しかし、津兼王子と混同して呼ばれることが多かったと考えられる。藤原定家が津兼王子を井関王子と記している他、明治以前の様子を描いた絵巻物にも井関王子を津兼王子と書いている。この地は、付近の人々から「王子田」と呼ばれ、このお社はその後社地を開墾して田地にした人が社地の片隅に安置していたというがその後の所在はわからない。ここは、ここから約4百メートル東方の山裾にある井関村村社、「稲荷神社」のお渡り所でもあった。

 「稲荷神社」のお神輿は先ず後述の「白原王子」(上の宮)に行き、続いて「井関王子」(下の宮)に進んで帰還したという。ここからは道の両側に家並みが続き、商家もあって今も屋号の残った家が多く「紺忠」「小路紺屋」「糀友」「糀喜」などがある。この途中「稲荷神社」から真っ直ぐ来る道と三叉路になっている所に大きな鳥居があった。また、和歌山県の調査図によると、このあたりに「伝馬所跡」や「一里塚」、「井関駅」があったと描かれている。また、前述の絵巻物によって「伝馬所」の跡が解ったがその他の跡が特定できない。この絵巻物には井関の上から下までの家並みや屋号、名前などが克明に描かれている。約四百メートル程で国道に出る。

 この辺りが先に述べた様に、古い古道などとの合流点であったと思われる。国道を横断してすぐ左に入り、両側に家が並ぶ道を進むと、今の県道とはあちらこちらで交わりながら進む。この途中にも屋号のついた家があり旅籠が多くなる。間もなく近づく難所「鹿が瀬峠」に向かう人々の宿場町であった。「養生場」は馬の養生する場所、「傘屋」(現在の姓は笠谷)は和傘を製造販売していた家で当時の作業台は今も残されている。「紀の国屋」という宿は身分の高い人の宿だったといい、時には「三ツ葵」の幔幕が張られていることもあったという。「亀屋」「松屋」「竹屋」(この宿が使っていた版木が二枚残っている。ちなみに筆者はこの末裔である。)「藤屋」「綿屋」なども皆旅籠であった。「藤屋」を過ぎて左側に「お大師さん」などを祀った所がある。ここが「白原王子」の跡である。「白原王子」の名称は後々まで伝えられていないようだが平安時代の終わりか鎌倉時代の初期まではここに王子があったが、後に今の「ツノセ王子」に遷座したため王子が廃止された所である。先に述べたように井関村の村社「稲荷神社」のお渡り所とされていた。今は森下氏がいろいろとお祀りしている。だから「ツノセ王子」の前身は「白原王子」であった。また、この王子跡の次の家は「立場」という屋号で呼ばれていた。住んでいる人は変わっているが、昭和の初期まで、この家の軒下に駕籠がつるされていた。この家は元は河瀬の「馬留王子」のすぐ近くにあった。

 間もなく広川を渡るが、公図によると里道として太く書かれているのは今の橋より三十メートル程上流であったことが付近の地番によってもわかる。ここから三たび、広川を渡る。西に約百メートル進むと「ツノセ王子」がある。ここは道中で最も王子跡らしい姿を残しているが社などはない。しかし槇の大木や巨岩などが古くからの佇まいを残した貴重な遺跡である。この地は現在河瀬(ごのせ)という地名であるが、これを、川瀬と書いた時代があり「川」の字を「ツ」と読みちがえられて「ツノセ王子」となったのではないかと考えられる。この地はここから約千メートル東にある本山八幡宮の秋祭りの行われる十月二日、神輿のお渡り所として「浜の宮」と呼ばれているが、一般 には「森さん」と呼ばれている。道を隔てて手前の橋の際に自然石の碑立っている。

 これには「右はくまのみち」「大水ニハ左」と書かれている。鹿ヶ瀬峠から下ってここまで来た時、本街道は右だが、大水で川が渡れない時には左へ行けという意味である。ここからは左に川沿いの狭い道があった。広川の左岸の山裾を通 って殿まで続いていた。この道を通ると人家はないが川を渡らず井関を抜けて、前述の案内板の建てている所まで行くことができた。しかし、今はごく一部にその名残りが認められている程度になっている。「ツノセ王子」のすぐ隣にある梅本氏は「峠」と呼ばれるが、この家は昭和五、六年頃まで鹿ヶ瀬峠の大峠に住んでいた。ここは「玉屋」といい大きい旅籠で茶店も営んでいた家で、古い宿帳や、大殿から頂いた鳥目の包み紙にメモをしたものが残されているという。これより先にも「マス屋」(枡屋)「車屋」という宿があった。「車屋」は田辺の殿様の常宿であったので専用の食器類を蔵におさめていたという。

 手前左側、小橋を渡った所に「延命山:地蔵寺」がある。木造の等身大の地蔵尊が祀られ「汗かき地蔵」といわれる。峠を登る旅人の尻押しをして汗をかいているのだともいわれる。寺の表には一、五メートル程の大きな、道標を兼ねた、天保の大飢饉(一八三七年)の餓死者に対する七回忌を機の供養塔があり、徳本上人の字体によるお名号<南無阿弥陀仏>が彫られている。台石には寄進者の名前もみえ天保十四年(一八四三年)建立の文字もある。この石塔は元は井関から河瀬に入る橋を渡った所に建てられたという。「ツノセ王子」から約八百メートル程で坂道にかかる。ここに「馬留王子」の跡がある。往年、楠本謙一氏が建てた石碑が残されてその所在を示しているが、地形的に見て、もう少し手前ではないかと推測される。

 道はここで熊野に通 じる熊野古道と上津木に至る津木坂とに分かれる。左方の津木坂を進んで山を越すと「藤滝」へ、また落合を通って「室河峠」を越すなどしていずれの道も日高郡へ越す道となる。この辻にも徳本上人の字体でお名号と道案内が書かれている。この分かれ道にはさまれた所に「立場」があった。「立場」とは、馬や駕籠の中継所で、立札。高札を立てたり、熊野詣の諸々の一行の休憩所であり、乗り物の調達もした。ここから間もなく道は急峻になるため駕籠では登れず、歩くか、牛馬の背に頼るしかなかった。しかし、余程高貴な方か虚弱な方が駕籠や台座に乗って登って来るのを、峠の茶屋で見かけたと、梅本氏の年寄りが話していたという。だから、駕籠も調達されたと考えられる。その隣には今の高城(たかぎ)氏の家があったが、いずれも居を移したものである。また、この右の方の山裾にはこの地の豪族「鹿ヶ瀬家」があり今もその末裔が住んでいる。

 ここには沢山の貴重な資料が残されていたが殆ど散逸し、現在唯一の資料として<古歴樞要>という標題の覚え書き帳があり最近殆ど解読されたと聞いている。熊野路はこれから急な坂道にかかる。近年この辺りはみかん畑として開墾され自動車が通れるような道路をつけているが、本来の街道は遠回りのしない急な坂道であった。藤原定家が「御幸記」に書き残し「シシノセ峠を攀じのぼる」と表現した急坂は今もその痕跡を残していて一部を除いてそれを辿って進むことができる。また、ヘアピンカーブを曲がらずに直進して大峠の真下から十数回ジグザグを繰り返しながら最短距離で急坂を攀じ登り峠に達する道が今も痕跡を残している。しかし今は一部シダや雑木が繁っているので峠の上から下りてこないと辿るのは難しい。

 畑がなくなる辺りからは古い道をそのままに行く。平成六、七年の二年続きで、県の補助を受け、広川町の事業として石畳による舗装が整備された。工法に問題はあるが、どうにか、雨水による荒廃を免れ、歩きやすくなった。途中、一の水、二の水、三の水の谷があり、頂上に近い所の左側、小高い所に椎の大木を背に一つのお地蔵さんがある。これが何時からともなく「痔の地蔵さん」と呼ばれ、痔にご利益があるといわれている。そして近年、行方不明の人や家出人を捜すのに霊験があるといわれ、お願いする人が多い。今は親の後を継いで上津木の奥 頼信氏が祈願をするが、荒縄で地蔵さんをぐるぐる巻きに縛っておくという。そして、見つかったら解いてあげるという。ここ十数年の間に生きて或は不帰の人となって十人以上の人が見つかっているという。(別の本に、このことを「法華塚」として書いているのは誤りである。)

 更に登った所を左に二十メートル程入った所に「法華壇」という台地がある。ここには次のような奇譚が「元亨釈書」(一三二二年)に書かれている。その昔、叡山の僧、壱叡が一夜の宿をとった所、夜中に法華経を唱える声が聞こえ、一巻終わっては礼拝懺悔、又、一巻を読む。毎巻このようであった。誰か同じように野宿している人の声かと思っていたが、夜が明けても他に人は居らず、傍らに白骨があった。すでに苔が衣服をつけたように見えたが、よく見ると口の中に紅く蓮の花のように見える舌があった。そこで、その日は去らず更に一泊すると、やはり夜中に読経の声がしたという。それで翌日、白骨の弔いをし仔細を尋ねると、この白骨の主は、生涯に法華経六万部を詠む誓願を立てた比叡山の僧、円善で、志半ばにしてこの峠で倒れたが、その志固く白骨化してなお続けているのだという。

 間もなく終わりに近づいたが満願の後は兜卒内院(弥勒菩薩の浄土:叡山)にもどるという。壱叡が後日訪れたときには白骨はすでになかったという。このことを記した「元亨釈書」が出てから約三十数年後、一三五七年、京都妙顕寺の妙実上人が弟子朗妙を伴い、師の日像上人が且って配流されたことのある鹿背山を訪ね朗妙に草庵を結ばせて円善上人を供養させたと伝えられている。これが広にある八代将軍吉宗公ゆかりの養源寺の縁起となっており、円善上人を開基、壱叡上人を初祖としている。この地は養源寺の寺領として石塔を建て毎年四月十六日、宗祖日蓮上人供養塔の前で「円善まつり」と呼ばれる法要が行われている。八代将軍吉宗公は母堂、浄圓院と共に大黒天信仰に篤く養源寺に祀られている大黒天尊像には度々お参りしている。そして、現在の寺領や伽藍は吉宗公から拝領したものであり、特に奥方、寛徳院の江戸屋敷が解体移送された建物は書院として今も現存して使われている。

 この大黒天尊像についての由来は別の機会に譲ることにする。これから間もなく峠の頂上に至る。「大峠」である。広い台地で何回も落雷にあったという椎の大木が立っている。何百年の歴史を見てきた生き証人である。この台地に、「とら屋」「玉 屋」「日高屋」などの茶屋や旅籠があり、その賑いの様子は「紀伊名所図会」にも描かれている。「とら屋」「日高屋」の末裔はこの近くにはいない。これより下り坂となる。少しの間、道は荒れているがすぐ右に行く脇道があり、その先に墓石群がある。古くからこの付近に住んだ人の墓で下山の折まとめて残して行ったものである。この道は更に鹿ヶ瀬城跡に続く。そして由良町へ下る道にも続く。本街道はここから小峠まで再び古道の面影をそのままの道が残っている。途中、竹薮の左側には庵寺跡があり、更に行くと右に馬頭観音が祀られている。往年この辺りでは追い剥ぎも出没し、道中博打もあったという。また、この近く、上津木(猪谷)の子供たちは坂道を歩く人の尻押しをして小遣い稼ぎをしたという。

 「小峠」の左角に道標をかねた「夜泣き地蔵」があり、すぐ前に茶店があった。峠の下の上津木(猪谷)に住む沖氏の家はここにあったので、今でも「小峠」という屋号で呼ばれている。ここは有田郡と日高郡の境界であり、この先の古道は下り坂のみ、しかも日高町が整備した石畳がきれいに敷きつめられ昔の面影をそのままに、最も古道の趣を偲ばせる所となっている。以上が広川町内における古道や王子の概略である。多くの人々の研究により諸々の説もあろうが、地元に住む者として、知る限りの古老の話などを総合して以上のようにまとめてみた。この考察には郷土史家で有田地方文化財審議委員会会長の田中 重雄氏のご意見も聞き考証を得ている。諸氏のご参考になれば幸いである。