ご本尊

ご開帳

江戸末期のご開帳

曼陀羅

屏風

壱叡上人
掛け軸

養源寺
裏庭

安政の
津波図

浄園院手鏡

徳川家
位牌

吉宗の
父母状

梅田局

八代将軍吉宗公ゆかりの出世大黒天

二人の兄の死を乗り越え、藩主、さらには将軍の座に・・・。

八代将軍徳川吉宗公の一代出世の影には、広村(現在の有田郡広川町)の秘仏・大黒天があった−。 「稲むらの火」で知られる国史跡・広村堤防にほど近い、日蓮宗長流山・養源寺には、そんなエピソードが残っている。

 

 養源寺の由緒は鎌倉時代にさかのぼる。その昔、一生のうちに六万部の経を詠む修業をしていた比叡山の僧・円善上人が熊野詣での途中、鹿ヶ瀬峠で亡くなった。

その時、残りは三万部。しかし死後も願力が抜けず白骨化しても経を詠み続けている円善上人を壱叡上人が発見した。一年後に同じ場所を訪ねたら白骨の読経は止んでいた。六万部を詠み切っていたのだ。

時代は南北朝時代に移り、今度は妙実上人が鹿ヶ瀬峠でその史実を知り、弟子の朗妙をこの地に留めて法華堂という名の草庵をむすばせた。これが養源寺の起源で、室町時代末期には広村、現在の有田郡広川町に移転、養源寺を名のった。

養源寺の現在地は天洲ヶ浜に近く、中世は広城主・畠山氏の館であり、頼宣公の時代には紀州徳川家の広御殿だった。

今も海側には堀、庭に頼宣公手植えと伝わる枝垂れの松が残り、御殿の面影がしのばれる。

この御殿跡地を養源寺に寄進したのが暴れん坊将軍とも称される八代将軍・徳川吉宗公である。吉宗公は生母・お由利の方(浄圓院)の影響もあり、養源寺に深く帰依していた。 養源寺には、お由利の方の母が旅の途中で持病の癪に倒れ、ここで世話になったという言い伝えがある。加えて頼宣公の母、お万の方以来、徳川家の奥方は日蓮宗信仰に熱心で、お由利の方の信仰、特に養源寺の大黒天への信仰はことのほか厚かった。

その子源六、のちの吉宗公は四男坊ながら父・光貞公と二人の兄の死があいつぎ、思いもかけず、紀州徳川家五代藩主となった。その後、将軍の座をも射止めた。

この一連の幸運はさぞや大黒天の霊験によるもの、と当時は大変な噂となり、年一回のご開帳である「大黒天祭礼」(四月第一日曜)は黒山の人だかりとなった。大黒天はお由利の方の母の守り本尊であった。

また、子(ねずみ)は大黒天の使いでもあり、子年生まれの吉宗公はそれを知り大黒天に大いに興味を持ち、藩主時代に二度、将軍になってからも一度、この地を訪れている。 吉宗公と養源寺の深いつながりを示す史実がもうひとつある。ここには、紀州徳川家江戸御殿が移築されていたのである。これは吉宗公の正室・眞宮理子姫(さなのみやまさこ・寛徳院)が御殿として使用していたものである。

十六才で紀州家に嫁入りした眞宮は二十才で流産、それがもとで若くして亡くなった。その御殿の資材一式が江戸から二隻の船で広村に運ばれ、移築されたのが現在の養源寺書院である。

この他、頼宣公、光貞公、吉宗公らの位牌をはじめ、眞宮所蔵の王朝風の屏風やお由利の方寄進の唐手鏡曼蛇羅、吉宗公親筆とされる父母状、葵の御紋入り長持ち、家来らの書状など養源寺には紀州家、とりわけ、吉宗公ゆかりの文化財が数多く現存している。

領地財政の建て直しのため新田開発や、湯浅醤油、金山寺味噌など地元産品の振興にも力を尽くした吉宗公。いまだ解き明かされない謎が多いだけに伝説のヒーローとして今もなお人気や注目を集めているのだろう。