鐘楼

七本松

男山焼創始者
崎山氏墓


池霊山 法蔵寺

 南広小学校の北隣に池霊山法蔵寺があります。永享八年(1436年)に明秀上人(1403生〜1487没)が開基し、室町時代には浄土宗西山派の紀州南本山として栄え、本末解体までは25カ所の末寺を有していた当時の面影を、古い石垣が語りかけてくれています。

山門の石段を登ると右手に、「月も日も西へ西へと入相の鐘で知らする極楽の道」と書かれた板碑と、左手には高さ3mほどの「名号石」が西の彼方にある本堂を案内してくれています。

 山門をくぐると釈迦堂、七本松、樹齢300余年の楠、眼前にはご本尊をお祀りする大本堂から納骨堂、右に回って書院から庫裏へと続き、庭には開山明秀上人お手植えと伝えられる、周3m三つの枝に分かれた老柏槙があります。

 また、中庭には、紀州の殿様が戯れに隠れて家来を驚かせた「殿がくれの楓」という古木があって有名でしたが、これは早く枯れてしまい、その名だけが残されています。また、吉宗公も宿泊されたようです。

 中野城主であった崎山家の古文書には、「法蔵寺門前より出陣した」と書かれているように、当時は一大拠点でありました。

 坂下の「從是西南法蔵寺境内」という石標が示すとおり、畠山氏・浅野氏の庇護を受け、寺領寄進により、かつては五千坪の境内の中に檀信徒の祖先の霊が静かに眠り、その中には南紀男山創始者山利兵衛翁などの墓もあり、思わず目をつむると、過ぎ去った遠い昔から今に至るまで数えきれね人達が、お念仏を唱えながら登り下りしたその足音が、今も聞こえてくるような気がします。

 門前の北東の小高い丘は、観音山と称し、「西国三十三ヵ所の写し霊場」が文化年間に創建され、現在もお参りする人が後を絶ちません。

 国指定重要文化財 法蔵寺鐘楼

国指定重要文化財「法蔵寺鐘楼」は山門を入った右にあります。

この鐘楼は、古さもさることながら、寄棟造と袴腰付で、姿・形が美しく、調和がとれ、珍しい様式であるといわれています。

建立年代は、詳らかではありませんが、様式手法からみて室町時代の中期を降らないものと推察されます。

棟札には、

(表)

 維持明治五壬申十一月中浣上棟

奉鐘楼再建大工棟梁広村伊賀武兵衛

 當山二十六代 頓空圓龍上人代

世話人 柏角兵衛 池永平十郎 梅本伴助 辻源兵衛 白井仁兵衛

(裏)

當山鐘桜堂者 人皇四十代天武天皇御宇白鳳七年戌寅歳十一月二十二日 別所村勝楽寺住職真悦法印上棟建立ヨリ一千拾七年ノ後 元禄八乙亥歳 広之荘八幡社ニ買請再建ス 然シ其後一百七拾八年ヲ経過シ明治五壬申歳三月下浣御一新二付

右堂宇取拂之當池霊山ニ買請再建候也

とありますように、元々は湯浅町別所勝楽寺に建てられていましたが、湯浅党衰退とともに、金堂は京都醍醐寺へ、観音堂・多宝塔・鐘桜堂は広八幡神社に諸堂宇解体移転されました。

その後、明治初年の神仏分離によって、広八幡神社よりこれら三堂宇が法蔵寺に移転され、多宝塔・鐘楼堂は再建されましたが、観音堂は再建に至らなかったようです。

しかし、多宝塔は南広小学校百年史の大正中頃までの卒業写真に映っていますが、本堂再建のため、移転を余儀なくされ現在、広島市の三滝寺に立派な多宝塔として再建されています。

また、鐘楼堂は幾多の変遷を経て、老朽化し、破損著しくなったため、昭和三十八年十一月一日より翌年十月三十一日にわたって、文化庁の指導のもとに解体修理され、現在に至っています。

(吉水志朗住職執筆)