浜口梧陵の偉業に学ぶ

広川が産んだ偉人、浜口梧陵が没してから110年余りの歳月が流れた。

郷土の防災と教育に人一倍の情熱を注いだ浜口梧陵。

近年、わが国だは防災、教育への関心が高まっているが、

彼はいち早く、これらの問題に目をつけていた・・・。

安政元年(1854)に広村(現在の広川町)を襲った大津波。 浜口梧陵は被災した人々のために敢然と立ち上がりました。 彼の活躍ぶりを描いた「稲むらの火」からは、 当時の緊迫感がひしひしと伝わってきます。
梧陵は、広村で分家浜口七右衛門の長男として生まれ、 十二歳の時に本家の養子として銚子(現在の千葉県)に移り、 家業であるヤマサ醤油の事業を継ぎました。
たまたま彼が広村に帰郷していたときに、突如大地震が発生し、 紀伊半島一帯を大津波が襲いました。 彼は、稲むら(ススキや稲束を積み重ねたもの)に火を放ち、 この火を目印に村人を誘導して、彼らを安全な場所に避難させました。

しかし、津波により村は大きな爪あとが残りました。
この変わり果てた光景を目にした梧陵は、故郷の復興のために身を粉にして働き、
被災者用の小屋の建設、農機具・漁業道具の配給をはじめ、各方面において復旧
作業にあたりました。
また、津波から村を守るべく、長さ650m余り、高さ約5mの防波堤の築造
にも取り組み、後の津波による被害を最小限に抑えました。
梧陵は、他の分野においても優れた才能を発揮しました。
教育面では、江戸時代末期に浜口東江、岩崎明岳とともに私塾を開設し、剣道や
学業などの指導にあたりました。
この私塾は後に「耐久社」と呼ばれ、変遷を経て現在の耐久中学校になっています。
時代が変わり、明治四年(1871)に梧陵は大久保利通の命を受けて現在の郵政
大臣にあたる駅逓頭に就任したのをはじめ、明治十三年には和歌山県議会初代
議長に選任されました。
議長辞任後は木国同友会を結成し、民主主義を広める活動を展開しました。
現在、町内の各地に梧陵の功績をたたえる碑が建立され、平成九年一月には新たに
「稲むらの火」広場が竣工しました。
これからも、梧陵の精神は受け継がれていくことでしょう。